日本の歴史には、時の権力に裏切られたり、無念の死を遂げたことで「怨霊(おんりょう)」となったとされる人物がいます。
中でも特に有名で、日本三大怨霊(にほんさんだいおんりょう)と呼ばれているのが、この3人。

菅原道真(すがわらのみちざね)
平将門(たいらのまさかど)
崇徳天皇(すとくてんのう)
彼らはそれぞれ、死後に災いをもたらしたと恐れられ、やがて「神」として祀られるようになりました。
なぜ、怨霊を「神様」として祀るのか?
この記事では3人の人生や伝説、共通点。
そして現代にどんな影響を残しているのかを、わかりやすく簡単に紹介していきます。
菅原道真(すがわらのみちざね)

学者から雷神へと変貌した男
菅原道真は、平安時代の優れた学者であり政治家でした。
学問に秀でた彼は、宇多天皇に信頼され、異例のスピードで出世を果たします。
しかし、権力闘争に巻き込まれ、政敵の陰謀によって九州の太宰府へ左遷されてしまいます。
無念の思いを抱えたまま現地で亡くなった道真の死後、京都では落雷や火災、疫病の流行といった災いが続きました。
当時の人々は「これは道真のたたりに違いない」と恐れ、怒りを鎮めるために神として祀るようになります。
やがて道真は雷の神「天神」となり、日本各地で信仰を集める存在となりました。
天神さまとしての信仰

受験生はみんな行く!
現在、菅原道真は「学問の神さま」として全国の天満宮で祀られています。
中でも有名なのが、福岡県の太宰府天満宮や、京都の北野天満宮です。
受験シーズンには多くの学生たちが合格祈願に訪れ、今では「知の守り神」として親しまれています。
彼が怨霊から神へと転じた例は、日本人の信仰のかたちを象徴しているとも言えるでしょう。
- 平安時代の有名な学者で、政治家としても優秀だった
- 宇多天皇に重用され、異例のスピードで出世
- 政敵・藤原氏の策略により、九州の太宰府に左遷される
- 無念のまま太宰府で亡くなる
- 死後、京都で雷や火災などの災害が相次ぐ
- 「道真のたたり」と恐れられるようになる
- 怨霊を鎮めるため、神として祀られ、「天神様」となる
- 現在は学問の神として全国の天満宮で信仰される
平将門(たいらのまさかど)

自ら新皇を名乗った関東の英雄
平将門は、平安中期に関東で反乱を起こした武士です。
地方の豪族同士の争いをきっかけに武力を強め、ついには「新皇(しんのう)」を名乗って独立国家のようなものを築きました。
これは朝廷にとって大きな脅威であり、反乱は数ヶ月で鎮圧され、将門は戦死します。
しかし、将門の首が京都に送られてさらし首にされた後、「首が空を飛び、故郷の関東に戻った」という伝説が生まれました。
こうした怪異な伝承は、彼が強大な怨霊となったと信じられる要因になりました。
首塚に込められた畏れと敬意

東京のど真ん中
東京都千代田区大手町の一角に、平将門の「首塚」がひっそりと残されています。
都市開発の中心地であるにも関わらず、この場所だけは古くから手厚く守られてきました。
実際、過去に首塚を無視して開発を進めようとした企業関係者に不幸が相次いだという噂もあり、現在でも慎重に扱われています。
将門は怨霊であると同時に、地域を守る“守護神”のような存在としても信じられています。
- 平安中期、関東の武士として勢力を拡大
- 地元豪族との争いから、ついに朝廷に反旗を翻す
- 自ら「新皇」を名乗り、独立政権を宣言
- 朝廷軍によって討たれ、首は京都へ送られさらし首に
- その後、「首が空を飛び、関東へ戻った」との伝説が生まれる
- 彼の死後、災いが続き、「怨霊」として恐れられる
- 首塚(東京都大手町)は今も崩すことができない聖域とされる
崇徳天皇(すとくてんのう)

呪詛の誓いを残した“日本最大の怨霊”
崇徳天皇は、保元の乱という内乱で敗れ、讃岐(現在の香川県)に流されました。
皇位を奪われた悲しみと恨みを深く抱き、都へ戻ることも許されないまま孤独の中で亡くなります。
最期には、自らの血で呪詛の誓いを書き記し、「日本を呪う」との強い言葉を残したとも言われます。
その後、朝廷に関わる人々が次々と不幸に見舞われたことで、「崇徳天皇の祟りではないか」と恐れられるようになりました。
日本史上もっとも強い怨霊とされる理由は、この呪詛の逸話と、後の災厄との結びつきにあります。
白峯宮に祀られるもう一人の神

スポーツの神様!
崇徳天皇は、香川県の白峯宮(しろみねぐう)に祀られています。
ここは彼の霊を鎮めるために建てられた神社で、現在ではスポーツ守護の神として信仰を集めています。
特にサッカーや蹴鞠との縁が深いことから、アスリートたちの参拝も多い場所です。
かつて日本を呪ったとされる彼が、今では人々を励まし、力を与える神として信じられているのは、時の流れと信仰の力の不思議さを感じさせます。
- 鳥羽上皇の子として即位するが、早期に退位
- 保元の乱で敗北し、讃岐へ配流(島流し)される
- 都に戻ることも許されず、孤独の中で亡くなる
- 最期に血で呪詛文を書いたという伝説が残る
- 以後、朝廷や貴族に不幸が相次ぎ、「日本最大の怨霊」と呼ばれる
- 鎮魂のため白峯神宮に祀られる
- 現在ではスポーツ守護の神としても信仰されている
日本三大怨霊の共通点
怨霊になったこの三人には共通点があります。
- 高い地位・権力を持ちながらも、理不尽な形で失脚・排除された
→ 栄光からの転落という強い落差が恨みを深めた - 政敵や身内に裏切られた経験がある
→ 他者によって人生を狂わされた怒りと悲しみ - 無念のまま亡くなり、名誉も回復されないまま死を迎えた
→ 死後に怨霊として語られる背景 - 死後に災害や不幸が続き、「たたり」として恐れられた
→ 社会的・自然的な異変との結びつきが怨霊信仰を強化 - のちに神格化され、神社などで祀られるようになった
→ 恨みを鎮めるため、神として信仰されるように変化 - 「怨霊=破壊」と同時に「守護=再生」の象徴としても機能している
→ 現代では受験合格・スポーツ守護・土地の守り神として信仰対象に
まとめ:日本三大怨霊 菅原道真・平将門・崇徳天皇はなぜ神として祀られるのか
昔の日本人は、怒りや悲しみを持ったまま死んだ人が「怨霊」になって災いをもたらすと考えていました。
だからこそ、こわい怨霊を「神様」として祀ることで、怒りをおさめてもらおうとしたのです。
この考え方を「御霊信仰(ごりょうしんこう)」といい、日本の宗教や文化に深く根づいています。
恨みを持って亡くなった人を、祀ってなぐさめる。
これは日本人の「思いやり」や「怖いものを受け入れる心」が表れているのかもしれません。
怖いけど、ちょっとかっこいい。そんな怨霊たちの物語を、これからも語りついでいきたいですね。